長崎・眼鏡橋と中島川石橋群(1)

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 長崎の古い面影を残す石橋群 説明文 銘板碑文等参考

中島川石橋群と眼鏡橋(めがね橋) Spectacles Bridge

眼鏡橋が架かる中島川の石橋群は古い長崎の面影を残している一つです。
 1634年架設の眼鏡橋以後、17世紀末までに、木橋、木廊橋(屋根付きの橋)が次々と石橋に架け替えられた。これらの石橋群は長崎町人たちの生活道であり、寺町の仏寺に行く参道としての重要な役割を果たしてきました。中島川の上流から下流まで石橋群は18橋ほどあるが5キロほどの短い川に架けられた数としては他に例を見ない。
 過剰気味のこれらの橋は、僧侶、通詞(事)、商人などの個人の財力で造られている。それはとりもなおさず長崎が鎖国時代唯一の外国貿易港であり天領であった豊を物語っている。
 橋銘は今のような名前はなく、「長崎図誌」の著者釈元享が、阿弥陀橋を「第一橋」として上流から順に「第二橋」「第三橋」と番号で呼んだ。現在の橋銘は明治15年頃に長崎の儒学者(漢学)西道仙がつけたものが大部分と言われる。
 これらの由緒ある橋も昭和57年7月の長崎大水害で6橋が流失。流失以前は、昭和35年に眼鏡橋が国指定重要文化財となり、昭和46年には、阿弥陀橋、高麗橋、桃渓橋、大井手橋、編笠橋、古町橋、一覧橋、芊原橋、東新橋、袋橋の10橋が市指定文化財に指定されていが、 長崎大水害により、昭和61年全壊した6つの石橋を文化財から解除し、現在は昭和58年10月修復された眼鏡橋をはじめ、阿弥陀橋(移築場所検討中)、高麗橋(西山ダム下公園内に移築復元)、桃渓橋、袋橋のみが文化財の対象となっている。

眼鏡橋(第10橋) 国指定重要文化財 1960年(昭和35)指定

 中島川の第10橋。眼鏡橋の名称は、川面に映った影が双円を描き、眼鏡のように見えることから、その名の由来といわれている。
 昔より「錦帯橋(山口県岩国)」「日本橋(東京)」とともに日本三名橋の一つとして名高い。
 眼鏡橋は、1634年(寛永11)、興福寺二代住持、唐僧・黙子如定(もくす にょじょう:江西省出身)の技術指導で架設されたといわれている。日本最初のアーチ式石橋であり、その石橋技術は全国の規範となった。
 1647年(正保4)の大洪水で崩流、翌1648年(慶安元)に平戸好夢(ひらど こうむ)によって修復されたと伝えられている。以後、度重なる大洪水にも崩壊をまぬがれたが、1982年(昭和57)長崎大水害で半壊し、翌1983年(昭和58)10月修復され現在に至っている。日常生活橋として今も活用されている。

眼鏡橋(国指定重要文化財) 眼鏡橋親柱と黙子如定像
  眼鏡橋親柱と黙子如定像

一ノ瀬口(いちのせぐち)(中島川上流・一ノ瀬川に架かる橋)

一ノ瀬橋・親柱

 長崎市指定有形文化財:昭和45年10月7日指定
 場所:長崎市本河内町
 一ノ瀬口は、一ノ瀬橋を中心とする旧長崎街道の一部を言う。
 一ノ瀬橋は、唐大通事陳道隆(1617~1676)によって架けられた。道隆は日本名を潁川藤左衛門といい、前妻慶林の没後、後妻に代官末次平蔵の娘を迎えるが、その妻・法春院も1652年(慶安5)に病没した。
 その法要追善として翌1653年(承応2)に日見峠への道筋にあたるこの場所にアーチ式石橋「一ノ瀬橋」を架けた。
 橋銘にローマ字で「ICHINOSEBASHI」とあるが、これは、1887年(明治20)頃刻まれたものであるという。(一説には1882年(明治15)の日見国道改修の折り説がある)

 昔、一ノ瀬橋の傍らには「一瀬の茶屋」という茶屋があったが、この付近は清流が流れ夏は蛍が乱舞する名勝地だったことから、いつしかこの茶屋を蛍茶屋と呼ぶようになった。
 また、長崎を旅立つ人と、見送りの人たちが別れを惜しんで酒を酌み交わしたのも、この茶屋であった。

古橋(旧中河橋)(中島川上流・鳴滝川に架かる橋)

古橋

 長崎市指定有形文化財:昭和47年6月10日指定
 場所:長崎市桜馬場町2丁目
 1654年(承応3年)唐通事の林守?(りんしゅでん)(帰化名・林仁兵衛)が架設。眼鏡橋から数えて6番目に架けられた石橋で、旧長崎街道への玄関橋であった。
 はじめは「中河橋」(なかごばし)といったが、1918年(大正7年)下流に「中川橋」ができたため「古橋」と改称された。
 アーチ両脇の布石が、矢印記号のように噛み込んでいるのが特徴で、石工の技術のたかさがうかがえ他には例を見ない貴重な石橋。
 側面から見ると、この橋は約1mちかく野石で高揚げされ欄干の丸親柱が埋もれているのがわかる、これは明治初期、人馬・人力車が通れるように段差を埋めたものと考察されている。
 橋付近の「いしだたみ」は清時代の江南風舗装術のエキゾチックなもので、歌にも唄われる「坂の長崎石畳」の最古の風情である。

阿弥陀橋(第一橋)

阿弥陀橋

 長崎市指定有形文化財:昭和46年10月21日指定
 場所:長崎市伊勢町~八幡町
 中島川の上流である一ノ瀬川に架かる石橋で1690年(元禄3)に泉州堺(大阪)出身の唐貿易商・園山善爾(そのやまぜんじ)が寄進したもの。日本人の寄進で架けられた最初の石橋。
 名前の由来については、江戸時代、死刑囚が市中引廻しの途中最後に渡った橋で、人生最後の念仏をとなえながら渡る姿があったからという説があるが、確かな根拠は定かではない。
 また、1691年に橋のたもとに阿弥陀堂が建てられたことにも由来するという。古くは極楽橋と呼ばれることが多かったといわれる。

 【長崎名勝図絵】に、「鎮治の東八幡町の旁に在て一瀬川に跨る 其の傍に弥陀の仏像を奉ず 名づけて極楽橋とし、又呼で阿弥陀橋と云う 元禄三年十一月園山善爾建つ銘あり」と記してある。
当時の阿弥陀像は明治初年、寺町の深崇寺に移され、現在の阿弥陀堂は近年建立されたものである。
 1982年(昭和57)長崎大水害後、中島川の河川改修に伴って解体され、阿弥陀橋の石材は保管されているが、移転場所は現在検討中とか、現在は鉄筋コンクリートに改造されている。

高麗橋(第二橋)

高麗橋 高麗橋親柱

 長崎市指定有形文化財:昭和46年10月21日指定
 中島川にそそぐ一ノ瀬川の下流域、伊勢宮神社前の銭屋川に架かる石橋。
 1652年(承応元)興福寺の檀徒である明の平紅府(紅蘇省蘇洲府)の人々の寄進で架設された説や伊勢宮神社の惣町の寄進で架けた説、 それに、陸手(くがて)28町の乙名の寄進で架けられた等のいくつもの説があり、誰が架けたかは不明。名前の由来は、新高麗町(後に伊勢町)にあったからという。
 その後何度かの洪水で壊れたり流失したりで、1866年(慶応2)に麹屋町の商人である池島正助が私費を投じて架け替えた。
 1915年(大正4)には鉄筋コンクリートによる橋上面の拡幅工事が行われた。長崎大水害後、解体され、旧橋は、平成5年に西山ダム下の公園内に移築、復元されている。

桃渓橋

桃渓橋 桃渓橋親柱

 長崎市指定有形文化財:昭和46年10月21日指定
 中島川の支流、堂門川(どうもんがわ)と銭屋川の合流点に位置し、堂門川に架かる。1679年(延宝7)、僧・永島仁左衛門卜意(ぼくい)(祖は中国南京出身)が在留唐人の寄付を集め架設。河畔に桃の木が多くあり、桃の名所として有名だったことが橋銘の由来。
 また架設した卜意の名をとり「卜意橋」ともいう。
 桃渓橋を架けた卜意は信仰が厚く、1680年(延宝8)橋の側に地蔵堂を建立、石地蔵を祀り、さらに1696年(元禄9)不動明王の石像を祀る。卜意は字で名は勤息(きんそく)といい、晩年に僧となった。
 昭和57年の長崎大水害により半壊したが、昭和60年に復元された。

大井手橋(第三橋)

大出手橋 大井手橋親柱

 1698年(元禄11)岡市郎右衛門正敏が私財を投じ架設。唐通事・林道栄が銘を作った。
 2度洪水で流失し、架け替えられ、3度目は1804年(文化元)長崎奉行所により架設された。
 この場所は二つの川の合流地点であるために、昭和57年の長崎大水害で全壊。1986年(昭和61)鉄筋コンクリート橋となる。
 大井手橋は『長崎ぶらぶら節』のなかで♪大井手町の橋の上で 子供の凧喧嘩 世話町は五六町ばかりも 二三日ぶうらぶら、ぶら~りぶら~りというたもんだいちゅう♪と歌われています。

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眼鏡橋アクセス

 所在地:長崎県長崎市魚の町
 路面電車:長崎駅前電停~蛍茶屋行き(3番系統)に乗車、市民会館前電停で下車、徒歩5分
 バス:長崎駅前東口バス停~十八親和銀行前経由(中央橋方面行き)に乗車、十八親和銀行前で下車、徒歩5分。
 車:長崎駅前から約5分。

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