坂本龍馬と亀山社中跡

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 説明文 銘板碑文等参考

坂本龍馬(さかもと・りょうま)

「世界の海援隊」を夢見た男・坂本龍馬
《人の世に道は一つということはない。道は百も千も万もある》
《おれは落胆するよりも次の策を考えるほうの人間だ》
    (坂本龍馬の名言)

坂本龍馬(さかもと・りょうま)

 天保6年11月15日(1836年1月3日)~慶応3年11月15日(1867年12月10日)
 土佐藩(高知県)、高知城下の町人郷士坂本家の次男として生まれた。坂本家はもともと商家で、龍馬は自由で合理的な町人気質に触れながら幼少の頃から剣術を学び育った。
 土佐藩を脱藩し、幕臣勝海舟のもとで航海術を習得し、ここ長崎では日本初の貿易会社を兼ねた政治結社・亀山社中を結成して海運業で才能をを発揮する。その後、海援隊を組織する。
 一方で対立していた薩摩藩と長州藩の間を調停し、薩長同盟の締結に尽力。いろは丸号沈没事件談判、イカルス号事件調停、さらに、徳川慶喜の大政奉還を画策し、明治維新を大きく推し進める原動力となった。
 京都近江屋にて何者かに襲われ暗殺され、「世界の海援隊を作る」という夢半ばにして人生の幕を閉じた。
 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社参道中腹

亀山社中跡(かめやましゃちゅう・あと)(長崎県指定史跡)

亀山社中屋敷外観 亀山社中跡(かめやましゃちゅう・あと)

 場所:長崎市伊良林2-7-24(旧長崎村伊良林郷)
 「社中」とは人が集まると言う意味であるが、亀山社中は軍事的、政治的かつ商業的な組織であった。
 土佐藩を脱藩した坂本龍馬や神戸で海防を学んだ海軍塾生同志らは、慶応元年(1865)海運や貿易さらに政治活動のため長崎入り。拠点を亀山焼窯跡(長崎村伊良林郷:現在の長崎市伊良林) に置き、薩摩藩などの援助のもと商社を立ち上げ、地名から「亀山社中」と称した。亀山社中は長崎の港や長崎奉行所・長崎街道が眺望できる情報収集の適地でもあった。
 当初、交易の仲介や物資の運搬などで利益を得、さらには薩摩藩・長州藩の橋渡し役となり運営は順調であったが、次第に難題が山積、慶応3年(1867)4月には後藤象二郎率いる土佐商会(土佐藩開成館貨殖局長崎出張所)の傘下となり土佐藩から資金援助を受けるようになる。このとき「海援隊」に改称。
 本部は小曽根邸(現在・長崎地方法務局)へ移る。隊の任務は「運輸・射利(しゃり)・開拓・投機・本藩の応援」と定めたが、実際は薩長両藩のため「輸送・武器船舶購入と和解提供の斡旋」など独自の活動をした。
 しかし坂本龍馬の暗殺以降、求心力がなくなり慶応4年(1868)4月藩命により土佐商会とともに海援隊も解散となる。

海援隊旗

坂本龍馬と海援隊旗

 勝海舟が、薩摩藩の西郷隆盛に龍馬たちの世話を頼み、慶応元年(1865)、長崎に「亀山社中」を設立し、龍馬たちに運営を任せた。慶応3年(1867)4月、「亀山社中」は、龍馬が脱藩罪を許されたのを期に土佐藩が引継ぎ、場所を小曽根邸へ移されたとき「海援隊」と改称された。
 龍馬が隊長となり、海援隊約規、それと船印として「赤白赤」の旗印も決めた。
 この旗は、「二曳(にびき)」と呼ばれた。この時、海援隊の会計を担当していた岩崎弥太郎が、のちに「三菱」の基礎を作り、その船舶部門が現在の「日本郵船」につながり、海援隊と同じ白地に2本の赤線が社のマークであり、やはり「二曳」と呼ばれている。

龍馬とお龍

お龍

 天保12年(1841)、医師の楢崎将作の長女として生まる。父の将作は井伊直弼による安政の大獄で捕らえられ獄死。このため、お龍と母、幼い4人の弟妹は生活に困るようになり、お龍は母・弟妹を養うために旅館「扇岩」で働くが、間もなく旅館を辞めて天誅組(てんちゅうぐみ)残党のまかないとなる。 しかし天誅組が幕府の追討を受けると、各地を放浪するようになった。このとき坂本龍馬と出会い、龍馬から自由奔放なところを気に入られて愛人となり、その世話を受けて寺田屋に奉公することとなった。
 慶応2年(1866)、薩長同盟の成立を悟った新撰組によって寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、裸(実際は浴衣であった)で飛び出して龍馬に危機を知らせて救ったとされる(寺田屋事件)。その直後に龍馬と結婚し、小松帯刀の誘いで薩摩藩の温泉への旅行(寺田屋事件での龍馬の傷湯治)を楽しんでいる。これが日本最初の新婚旅行であったといわれている。
 慶応3年(1867)、龍馬が暗殺されたとき、お龍は豪商の伊藤助太夫のもとにいた為、難を逃れた。龍馬死後、三吉慎蔵が面倒をみていたが、慶応4年(1868)3月にはお龍を土佐の坂本家に送り届けている。龍馬の姉・坂本乙女の元に身を寄せたが、間もなくそこを立ち去る。このとき、龍馬からの数多くの手紙は坂本家とは関係ない二人だけのものとし、すべて燃やしてしまっている。

龍馬と長崎の女

女富商・大浦慶

 龍馬が愛した長崎の女に「お元」という丸山芸者がいた。長崎の漁村で茂木びわで知られる茂木の生まれ、よく気が利き、男好きする美貌の持ち主だったという。琴や三味線がうまく、龍馬は音曲を存分に楽しむことができたとか、また芸者「錦路」も龍馬を慕ったと言う。
 龍馬は、海援隊の本部があった小曽根邸に、おりょう(龍)としばらく住んでいたが、おりょうが下関に移ってからは、このお元と過ごし、くつろいだのだという。
 また、龍馬が恩恵を受けた女性が長崎にも居た。大浦慶である。長崎油屋町の富商として名高い女性である。龍馬とはイギリス武器商人グラバーをはさんでの出会いであった。「お慶屋敷」は龍馬ら亀山社中の若者の秘密の拠点でもあり、「肝ふとかお慶さん」と親しまれた。
 青年志士と遊女との関係もまた深い。ある時は傷つく志士を手当てしてかくまい、情報提供もまた連絡の役を果たす事もあった。国家の大業を目指す志士たちの心意気は彼女たちには魅力的であったろう。

龍馬が愛した長崎丸山芸者「お元」の出生地と言われる長崎茂木村とは
  天正8年(1580)、長崎6町と茂木村はイエズス会領として大村純忠らによって寄進されます。
  天正15年(1587)、豊臣秀吉の伴天連追放令によって長崎6町と茂木、浦上が没収される。
  慶長19年(1614)、徳川家康が禁教令を発布、禁教政策はこの後年を追ってきびしくなる。
  寛文9年(1669)、茂木村は長崎代官が支配。
  延宝4年(1676)、茂木村は天草代官、さらには島原藩の預かりとなる。
  明和5年(1768)、島原藩預かりの茂木村は長崎代官支配となる、この頃から踏絵が毎年実施される。
  元治2年(1865)、当時「フランス寺」と呼ばれていた大浦天主堂(日本26聖殉教者天主堂)の献堂式。
  明治元年(1868)、長崎府高来郡茂木村、翌2年、長崎県高来郡茂木村になる。
  明治6年(1873)、太政官布告によりキリシタン禁制の高札を撤去、禁教令廃止
  明治22年(1889)、西彼杵郡茂木村となる
  大正8年(1919)、茂木村に町制が敷かれ西彼杵郡茂木町となる
  昭和37年(1962)、長崎市に編入される。
※長崎茂木村には熱心なキリシタン代官・村山等安の別荘があった。
 村山等安(生年不詳(永禄5年頃) ~元和5年(1619)10月26日)・洗礼名アントニオは長崎代官(文禄2~元和2年)で熱心なキリシタンでキリシタン布教の便をはかった。
 等安は1609(慶長14)年、ドミニコ会に土地(現・長崎市勝山町桜町小学校敷地内)を寄進、この土地にサン・ドミンゴ教会が建てられた。
 慶長年間(1596年~1615年)、等安は茂木村に豪壮な別邸を建て、その別荘は濠で囲まれ、まるで城郭のようだったという。元和5年(1619)、キリシタンを擁護した事と大阪方と内通したという嫌疑で処刑される。現在、長崎代官アントニオ村山等安別邸跡の石碑が建つ場所は、等安没後、茂木庄屋宅や茂木ホテルなどが建てられた。

龍馬通り

 「龍馬通り」とは、寺町の深崇寺と禅林寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園へ至る小路の名称。
 長崎らしい坂道・階段が続くこの歴史探訪路には手作りの案内板が各処に設置されている。

亀山社中への道案内1

① 亀山社中へは、寺町の深崇寺と禅林寺の間から約200mほど坂道を登ります。

亀山社中への道案内2

② ここまでは、緩やかな坂道だすが、これからは、石段が続く。

亀山社中への道案内3

③ 中間地点100mで近藤長次郎さんのお出迎えの看板がある。

亀山社中への道案内4

④ あと60m地点では、陸奥宗光さんのお出迎えの看板。

亀山社中への道案内5

⑤ 石段の坂を登りつめ、右へ曲がり、約500m登ると龍馬の銅像へ。(石田英吉)

亀山社中への道案内6

⑥ ⑤より左へ5m行くと亀山社中の跡です。約5m先に龍馬のブーツがあります。

亀山社中屋敷外観

⑦ 龍馬が活躍した亀山社中の屋敷。龍馬がいた時代の屋敷に復元改築。

亀山社中跡の坂本龍馬像

⑧「坂本龍馬之像」は平成21年7月5日、若宮稲荷神社境内(伊良林)に移された。

坂本龍馬使用の井戸

⑨ 坂本龍馬が使用したといわれる井戸(亀山社中跡内)

龍馬のブーツ

龍馬のブーツ1 龍馬のブーツ2

 日本で最初にブーツを履いたといわれる男、坂本龍馬。当時土佐では身分制度が厳しく下級武士である郷士の家に生まれた龍馬は草履しか履けなかった。
 自由の地長崎で龍馬はブーツを履いき、何をおもい長崎の空を見上げたのか?。
 亀山社中創立130周年を記念して、平成7年(1995)10月28日、亀山社中創設130周年を記念して「亀山社中ば活かす会」が建立。
 龍馬のブーツをはき、舵輪に手をかければ、長崎の街並みが一望でき、龍馬や海援隊の気分が満喫できるかも。
 ブーツ本体:高さ 0.4m 長さ 0.6m 幅 0.2m

“坂本龍馬がゆく道”散策路

風頭山公園「坂本龍馬之銅像」 司馬遼太郎「龍馬がゆく」文学碑

 風頭山公園「坂本 龍馬之銅像」
 長崎県長崎市伊良林3丁目

 司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑は、風頭山公園にある坂本龍馬之像の脇に設置されている。文学碑には本書の次の言葉を抜粋して刻んである。
 外国船が長崎の港内に入ったとき、竜馬は胸のおどるような思いをおさえかね、「長崎は、わしの希望じゃ」と陸奥陽之助にいった。「やがては日本回天の足場になる」ともいった。
 司馬遼太郎 「竜馬がゆく」より

良林亭跡

 長崎県長崎市伊良林2-9
 文久3年(1863)草野丈吉は、わが国で西洋料理専門店の先駆けである「良林亭」を開業しました。
 草野氏は18歳のとき出島阿蘭陀商館出入りの商人に雇われ、大浦居留地で外国人の使用人として使えます。その後オランダ軍艦のコックとなり西洋料理を学び、西洋料理の調理法を極めた。
 良林亭は、伊良林の自宅を改造し、6畳一間の部屋で、6人以上のお客様はお断りだったそうです。元治元年(1864)には店舗を他所に新築し、「自遊亭」、慶応元年(1865)に「自由亭」と改称。
 明治11年(1878)、馬町の諏訪神社前に進出しました。明治12年(1879)、アメリカ・グランド将軍が来日した際、ここでパーティーが開かれました。明治20年(1887)に廃業。自由亭時代の建物は、現在グラバー園内に移築されています。

若宮稲荷神社

若宮稲荷神社

 長崎県長崎市伊良林2-10-2
 出来大工町の乙名・若杉喜三太が、自邸に祀っていた南北朝時代の忠臣・楠木正成公の守護神(稲荷大神)を延宝元年(1673)、現在地に移したのがはじまりと伝えられており、 代々の奉行、伊良林郷の鎮守の神として崇敬を集め、「古いお宮を若宮様」と親しまれている。明治維新前後には勤皇稲荷(勤王神社)と称し、坂本龍馬をはじめ長崎に来往する志士等の多くが若宮稲荷神社に参拝したという。
 秋の祭り(10月14・15日)に奉納される行事「竹ん芸(長崎市指定無形文化財)」は有名で、男狐・女狐の面をつけた若者が高さ10m余りの2本の青竹の上で曲芸を行ないます。
 神社の使いである男狐と女狐が若宮神社の御神徳をよろこんで裏の竹薮で遊ぶ姿を模したものといわれています。

方形の鳥居

若宮稲荷神社

 鳥居の柱が方形で作られた珍しい鳥居、旧長崎奉行所内の稲荷社に文政5年(1822)に長崎奉行土方出雲守が奉納し明治32年(1899)に若宮稲荷神社に移された。

亀山焼窯跡

亀山焼窯跡

 長崎県長崎市伊良林2-15
 亀山焼窯跡について
 亀山焼窯跡は文化4年(1807)大神甚五平外3名がオランダ人に売る水瓶製造の窯を築き陶器を焼いたことに始まり文化11年(1814)白磁染付を焼くことに成功しました。絵付けは南画家木下逸雲など有名文人墨客のものも多く数々の名品を遺しましたが次第に衰徴し慶応元年(1865)廃窯となりました。
 今では幻の亀山焼とも言われ美しい南画風の絵柄ともあいまって愛好家達を魅了しています。
  (伊良林 平自治会掲示板より)

坂本龍馬之像

 1991年から亀山社中跡の庭内に置かれていた「坂本龍馬之像」は若宮稲荷神社境内(伊良林)に移された。
 若宮稲荷神社は社中に近く、龍馬が崇拝していたとされる南北朝時代の武将、楠木正成が祭られており、社中の志士が参詣したという言い伝えがあることなどから移設場所に決まった。
 (坂本龍馬之像は、青銅製で高さ1m、重さ80kg。風頭公園(伊良林3丁目)に立つ龍馬像の原型で約3分の1の大きさ。

亀山焼窯跡と亀山社中跡

 亀山焼窯跡(長崎市伊良林 2丁目15) ・ 亀山社中跡(長崎市伊良林2丁目7番24号)
 文化4年(1807)「垣根山焼」と称してオランダ船用の陶器の水瓶を焼いていたのが亀山焼の始まりといわれている。
 窯は亀山社中上の垣根山(旧・長崎村伊良林郷字垣根山)にあり、11室の登窯だった。文化11年(1814)、波佐見・長与などから陶工を招き高級白磁器を製作するようになるが、財政難のためついに慶応元年(1865)に廃窯となる。崎陽(長崎の別称)の名陶といわれた。
 長崎の崎陽三筆と称される木下逸雲・鉄翁・三浦梧門など一流画家が絵付けした数々の名品が残る。
 亀山社中跡周辺には、亀山焼の作業場や職人の宿舎があり、当時、町内の某家の別荘(旧・髙田茶屋とも)であったものを坂本龍馬たちが借り受けた。おそらく、小曾根家の斡旋によるものだろう。

坂本龍馬たちが会談(面会)に使った料亭・茶屋など

清風亭 旧・長崎榎津町(現・長崎市万屋町5)
 旧・榎津町にあった料亭。
 慶応3年(1867)1月、坂本龍馬はこの料亭で土佐藩参政・後藤象二郎と会談。仇敵だった二人がこの会談で意気投合し、以後、政治活動に邁進し、同年4月には土佐海援隊が成立、10月には大政奉還が実現した。
 清風亭は12畳と8畳の部屋が一室ずつで比較的手狭な二階建ての小さい料亭だったようだ。土佐藩とは関係深い料亭で、秘密の会議をする場所として打って付けの料亭。


料亭「玉川亭」 旧・本紙屋町(現・八幡町)
 幕末当時、中島川上流の大井手橋付近「本紙屋町(現・八幡町)」にあった川魚料理で有名な料亭。木造2階建、「隠し塀」のような高い塀があった。
 慶応3年(1867)8月、長州藩の桂小五郎(木戸孝充)が坂本龍馬と土佐藩重臣・佐々木高行に面会した料亭。大政奉還運動に危惧を示していた桂小五郎は武力討幕の必要性を強調した。
 このとき、長州藩(桂小五郎)が土佐藩に対して長州藩船の修理費用千両の工面を相談し、龍馬らが土佐商会を通して用立てたとされている。


藤 屋 (長崎市伊良林町一丁目8番)
 藤屋は伊良林町にあった大料亭で、フランス料理も出していた。天保元年(1830)に創業、慶応元年(1865)から西洋料理を手がける。今の若宮神社横の横田氏の所を玄関に後方は松田氏の庭園付近まであった大きな料亭であったが昭和の初年廃業。
 坂本龍馬も土佐藩士・佐々木三四郎らと度々訪れている。慶応3年8月に龍馬が佐々木三四郎に宛てた手紙の中に藤屋のことが触れられている。また、イギリス商人・トーマス・ブレイク・グラバーも得意客だったようです。


吉田屋 (今の富貴楼・長崎市上西山町5-4)
 前身は千秋亭、代々吉田屋を名乗り、明暦(1655)の頃には長崎松の森に料亭吉田屋を営む。
 幕末には岩崎弥太郎や才谷梅太郎ら多くの幕末の志士達も来亭したと云われている。
 富貴楼は2007年(平成19)に国の登録有形文化財に指定されました。この料亭「富貴楼」という屋号ですが、伊藤博文が明治22年来亭の際に、経営者内田トミに「何かいい屋号はありませんか?」と依頼されて伊藤自身が命名し、当時の屋号「富士亭」から変更したものだということです。


内田屋
 イカルス号事件無罪の祝杯をあげた場所。
 上記の内田重吉の吉田屋(今の富貴楼)のことか?それとも榎津町の旅館「内田屋」のことか?


引田屋(花月)
 遊女屋引田屋の創立は、寛永年間(1624年頃)といわれ、花月は、文政元年(1818)の頃、引田屋の庭園内につくられた茶屋の名称である。
 花月は明治12年(1879)、丸山の大火で類焼、その翌年花月の名称は引田屋の一部に移転、大正末年引田屋は廃業したが花月の名称と引田屋の庭園・建物は現在に継承されてきた。
 イカルス号事件無罪の顛末を綴った龍馬の書類の草稿が残っている。


満喜楼
 丸山にあったと思われる。
 慶応3年(1867)6月2日 坂本龍馬は後藤象二郎邸で岩崎弥太郎を交え紀州藩との対策を協議し夕刻に五代才助を丸山満喜楼に招き会談。

小曾根邸跡

 現在の万才町、長崎地方法務局の場所(長崎市万才町8-16)
 小曾根家は、江戸から明治にかけて、長崎を代表する豪商だった。平戸の貿易商・平戸道喜が家祖で、道喜は1605年(慶長10)年平戸から長崎(本博多町)に移り、貿易商で財をなし、五島町・樺島町に倉庫7棟を持つ大商人となる。永昌寺(玉園町)は道喜の別荘だったが、妻が同寺に寄進した。
 出島を構築した25人の出島町人の一人で、築城技術を生かし工事の指揮監督を司った采配人。また、1648年(慶安元)に眼鏡橋を修復したのも道喜だった。六左衛門の子どもである乾堂は、聡明で書画に長じ、篆刻(てんこく)に巧みだったことで知られる人物。 特に隷書(れいしょ)が天下一品と称されていた。幕末に焼失。
 この屋敷へは勝海舟、坂本龍馬などの志士がよく出入りしていた。乾堂の弟・英四郎は海援隊の経理担当であった。
 また、海援隊の近藤昶次郎(ちょうじろう)が亀山社中との約束の中でイギリスへ独断で渡航しようとした疑いが発覚し、小曽根邸の一室・梅ノ間で切腹した。晧台寺(長崎市寺町)後山にある小曽根家の墓には、乾堂の墓はなく、平戸道喜の墓碑と共に近藤昶次郎の墓があり、墓石には坂本龍馬によって別名「梅花書屋(ばいかしょおく)氏之墓」と刻まれてある。
 坂本龍馬は亀山の社中でよりも、小曾根邸で活動することが多かった。また、龍馬の妻お龍は長崎に滞在中(慶応2年6月から翌年2月まで) 小曾根家別邸に身を置き、小曾根乾堂の娘・キクから月琴を習い、またかつて高島秋帆の門下で鉄砲の名手でもあった小曾根英四郎から、短銃の稽古をうけました。
 慶応3年海援隊結成の会議が小曾根邸で行われ、のち「海援隊」の本拠地となる。

大浦屋お慶屋敷跡

 長崎市油屋町2番
 油屋町の油問屋・大浦太平次の娘のお慶は、嘉永六年(1853)、21歳のとき肥前嬉野茶の販路を海外に求め、兼ねてから親交があったオランダ通詞の品川藤十郎の手引きで出会った出島在留のオランダ人テキストルの協力を得て日本脱出に成功。輸出船が港を出るまでトランクの中に身を隠していた話は有名だ。
 日本茶の輸出方法と需要の状況を把握し帰国したお慶は日本茶を英米に輸出することになり、日本における製茶貿易の皮切りを果たした。
 その後諸外人の信用を得てばくだいな利益を得て大金持ちになったが、独り占めせず、その利益を国事に奔走していた坂本龍馬、高杉晋作、大隈重信などを援助したことで知られる。
 慶応2年8月、龍馬はお慶の屋敷で後藤象二郎と会見したという。
 お慶は、明治17年56歳で死去。お慶の墓石は清水寺本堂から100m程上った隣町の高平町にある。

晧臺寺(曹洞宗・海雲山 長崎市寺町1-1)と小曾根家墓所

 慶長13年(1608)、備前国松浦郡山口村(現在の佐世保市相浦町)飯盛山洪徳寺の第七代住持・亀翁良鶴が創建。はじめは洪泰寺と称し岩原郷にあったが寛永3年(1626)に寺町に移り晧台寺と改称。
 大仏殿・蓮華台には長崎最大の高さ3.4メートルの銅像昆慮舎那仏坐像が安置してあります。
 坂本龍馬遭難の1ケ月後、海援隊を中心に縁の人々によって皓台寺で龍馬の慰霊祭が行われた。
 皓台寺後山の小曾根家の墓所には、龍馬や亀山社中の活動をサポートした小曾根英四郎や亀山社中同志であった近藤昶次郎の墓がある。

福済寺(黄檗宗・分紫山 長崎市筑後町2-56)

 崇福寺、興福寺とともに長崎三福寺の1つ。戦前の建物は国宝に指定されていましたが1945年8月9日の原爆で大破、大雄宝殿も焼失した。今は巨大な観音像「万国霊廟長崎観音」がある。
 元治元年1864、外国艦隊による下関攻撃に備えるため、幕府は勝海舟を長崎に派遣。この時、目付・能勢全之助とともに初めて長崎に坂本龍馬は同行し長崎の地を踏み、その時の逗留した寺。

聖福寺(黄檗宗・万寿山 長崎市玉園町3-77)

 玉園町にある長崎四福寺の1つ。延宝5年1677鉄心によって開創。同寺は幕末維新以後、広東の人達が多く帰依、広東寺と称された。天王殿は長崎の他の黄檗寺院にはない形式の建物である。
 ジャガタラお春の碑、7代目市川団十郎が先祖供養と子孫繁栄を祈願して建立した供養塔も境内にはある。大雄宝殿横にある鬼塀が有名。
 「いろは丸海難審判交渉」の場。土佐藩参政・後藤象二郎と紀州藩勘定奉行・茂田一次朗とのトップ会談の舞台となった。交渉の場を長崎にすることで、海援隊側に有利に進んだとも言われている。

本蓮寺(日蓮宗・聖林寺 長崎市筑後町2-10)

 筑後町にある日蓮宗の大寺院。元和6年1620、大村本経寺住職の日慧が開創。
 広大な敷地を誇るこの寺は、長崎三大寺といわれていたが1945年8月9日の原爆で全焼。キリシタン時代の数少ない遺構・南蛮井戸跡 が残っている。
 長崎海軍伝習所時代(1855~1859)の勝海舟の宿舎(塔頭・大乗院に4年ほど滞在)。
 同寺墓地には慶応4年18681月、海援隊が長崎西奉行所を占拠した時、誤って薩摩藩士を射殺した責任をとり切腹した海援隊士・沢村惣之丞の墓がある。

光源寺(浄土真宗・巍々山 長崎市伊良林1丁目4-4)

 江戸時代初め、筑後柳川(現在の福岡県瀬高町)にある光源寺僧・松吟(しょうぎん)は真宗の布教のためキリシタン全盛期の寛永初年(1625頃)来崎し、布教活動をはじめ。時の第13代長崎奉行馬場三郎左衛門利重より銀屋町(銀屋町自治会館前)に寺地を与えられ、寛永14年(1637)筑後と同名の光源寺を開山。  しかし延宝4年(1676)付近の火災により類焼したので伊良林(現地)に移転した。
 飴屋の幽霊談話があり、延享2年(1745)の箱書のある産女の幽霊像が保存されています。
 二宮又兵衛墓「光源寺後山墓地」
 亀山社隊士二宮又兵衛墓地。坂本龍馬の死後、亀山社中は宇和島藩士二宮又兵衛等によって運営されたが、3年8月12日に又兵衛が暗殺され、社中は自然と解散した。

亀山社中メンバー

土佐10名・坂本龍馬、近藤長次郎(昶次郎)、菅野覚兵衛(千屋寅之助)、高松太郎、新宮馬之助、池内蔵太、石田英吉、山本復輔(山本洪堂)、中島作太郎(信行)、沢村惣之丞
越前3名・小谷耕造、渡辺剛八、腰越次郎
越後2名・ 白峰駿馬、橋本久太夫
紀州1名・ 陸奥陽之助(陸奥宗光)
讃岐1名・ 佐柳高次
因幡1名・ 黒木小太郎
出身地不明1名 ・早川二郎

近藤長次郎(こんどう ちょうじろう・昶次郎):土佐藩

 天保9年3月7日(1838年4月1日)-慶応2年1月14日(1866年2月28日)

近藤長次郎:土佐藩

 高知城下の餅菓子商「大里屋(おおりや)」伝次の長男として生まれる。幼少期から聡明で江戸に出て学問と砲術を学ぶ、砲術は高島秋帆から学んでいる。才能を山内容堂にも認められて文久3年(1863年)に名字帯刀を許された。勝海舟の門人となり航海術を修め、慶応元年(1865)の亀山社中結成に参加し、優秀な人材で「龍馬の片腕」とも呼ばれていた。
 この年、坂本龍馬は薩摩藩におもむき長州藩が軍艦・武器を購入するための名義貸しを申し入れ、薩摩藩の名義を借りた。長州藩のための軍艦・武器購入計画の手配が始まると、長次郎は中心的役割を果たした。しかし、慶応2年(1866)英国への単独渡航の計画が露見し、盟約違反に問われて、長崎の小曾根邸内で切腹した。
 龍馬の妻であるお龍が、後に回顧録「千里駒後日譚」の中で、長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居ったら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んでいたという証言を残している。
 墓は、皓台寺(長崎市寺町)の裏山小曾根家の墓地内にあり、「梅花書屋氏墓」と記されてある。

沢村惣之丞(さわむら そうのじょう):土佐藩・高知県生まれ

 天保14年(1843) ~ 慶応4年1月25日(1868年2月18日)

 土佐国土佐郡潮江村(現高知県高知市潮江)の浪人の子として生まれる。文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、文久2年(1862)坂本龍馬と土佐を脱藩した。
 その後、勝海舟の門下生となり、神戸海軍操練所、亀山社中、海援隊と常に龍馬と共にし、龍馬の活動を支援しました。沢村惣之丞は学問を好み、特に英語と数学に優れていたといい、また長府藩士にも航海術を教えている。
 慶応3年(1867年)には坂本龍馬殺害事件の容疑者であった紀州藩・三浦休太郎の暗殺計画に参加するが、失敗に終わった。
 慶応4年(1868)1月、維新の混乱から無人状態となった長崎奉行所を、沢村ら海援隊が占拠し、長崎の町を警備した。しかし1月14日の警備中、薩摩藩士・川端平助を誤殺してしまう。沢村は薩摩藩との反目を恐れ、海援隊本部で責任を取り切腹した。
 沢村惣之丞の墓は、現在でも長崎市筑後町の本蓮寺に残されています。

亀山社中記念館アクセス

 所在地:長崎県長崎市伊良林2-7-24
 路面電車:長崎駅前電停~蛍茶屋行き(3番系統)に乗車、市民会館電停か諏訪神社電停で下車、徒歩約20分
 開館時間:午前9時~午後5時 休館日/なし
 入館料:一般310円  高校生200円  小・中学生150円 ※団体割引あり
 駐車場:なし