長崎・黄檗宗東明山 興福寺(こうふくじ)
興福寺寺域県指定史跡 (昭和36年11月24日指定)
興福寺は、「長崎三福寺」(興福寺、福済寺、崇福寺)のひとつで、元和6年(1620)中国人がキリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る寺として創建された。
わが国における最初の黄檗禅宗の唐寺(とうでら)です。主として南京出身の船主らの寄付によって建てられたので「南京寺」ともいう。
また、雄大な朱丹色塗りの山門により「あか寺」として親しまれています。
開基は江西省出身の眞円(しんえん)、眞円は寛永12年(1635)まで住職を務めた。その後、二代目には眼鏡橋を架けたたといわれる唐僧・黙子如定(もくすにょじょう・寛永9年(1632)渡来)が住職に就きました。正保元年(1645)住職を三代目逸然性融(いつねんしょうゆう・近世漢画の祖)に譲る。
三代目逸然性融は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、当時、中国の福建省黄檗山万福寺の住職であった隠元禅師(いんげんぜんじ)を招請する事に尽力した。度重なる懇請によって隠元禅師は承応3年(1654)長崎へ渡海された。逸然性融は隠元禅師を住職に推薦し、自らは監寺に下がりました。
明暦元年(1655)隠元禅師が東上すると、明暦2年(1656)正月から中興二代澄一道亮(ちんいどうりょう)が勤めるようになった。唐僧の渡来は、1700年代中頃にはなくなり、9代住職竺庵(じくあん)が本山の13代住職に就任すると、以後は和僧が監寺として住職を代行、現在32代に至る。
興福寺は、臨済宗黄檗派(明治9年から黄檗宗)発祥の地として記念すべき地となっている。
隠元禅師は、長崎滞留1年後、明暦元年(1655)東上。寛文元年(1661)京都宇治に黄檗宗大本山万福寺を開山、わが国に黄檗宗を開立した。また隠元禅師は数多くのものを日本に伝つたえている。建築や書画、彫刻、茶道、料理などの明朝文化。 それから野菜果物までもある、禅師の名が付いたインゲン豆、すいか、なし、れんこん、なすび、もやしなど。さらに胡麻豆腐、胡麻あえ、けんちん汁。印鑑に木魚、煎茶や普茶料理(ふちゃりょうり・中国僧の精進料理)などがある。
山門(あか門)
(県指定有形文化財 昭和34年1月9日指定)
興福寺山門 |
山門梁上の扁額「東明山」 |
山門梁上(内側)の扁額「初登宝地」 |
総朱丹色の雄大な山門は長崎で一番の大きさ、明暦元年(1655)創建。寛文3年(1663)市中の大火で伽藍(がらん)のことごとくを焼失、元禄3年(1690)に日本人工匠の手で再建された和風様式。昭和20年(1945)原爆で大破したが、その後復元された。
正面の扁額「東明山」は隠元禅師が命名した山号。山門梁上(内側)扁額「初登宝地」は隠元禅師の書。
※ 山門に入ると、突き当りが石垣で参道が直角に曲がっている。この造りは、本堂(大雄宝殿)に邪気が直接入るのを防ぐ唐寺特有の魔除けのための伽羅(がらん)配置である。興福寺の場合は参道である眼鏡橋から配置がされているという。
興福寺本堂(大雄宝殿・だいゆうほうでん)
国指定重要文化財 (昭和25年8月29日指定)
本堂を大雄宝殿と呼ぶのは釈迦(大雄)を本尊として祀ることからくる。
正面壇上に本尊釈迦如来、脇立は準提観音菩薩と地蔵王菩薩を祀る。
寛永9年(1632)第二代黙子如定禅師が創建。元禄2年(1689)再建、慶応元年(1865)暴風で大破したため、明治16年(1883)再建され現在に至る。材料は中国で切り込み、中国から招いた工匠が作った純中国式建築。
柱や梁には巧緻な彫刻、とくに氷裂式組子(ひょうれつしきくみこ)の丸窓、アーチ型の黄檗天井、大棟の瓢瓶(ひょうへい・災害が振りかかると瓢瓶が開いて水が流れ、本堂を包み込むという意がある火除けのおまじない)高さ1.8mなどが珍しい。
氷裂式組子の丸窓 |
アーチ型の黄檗天井 |
火除け瓢瓶 |
興福寺媽姐堂(まそどう)(海天司命堂)
県指定有形文化財 (昭和37年3月28日指定)
媽姐(まそ)は、「天妃」「天后聖母」「菩薩」などの呼び名がある。航海の守護神で、華南地方で深く信仰された。長崎へ来航する唐船には必ず「媽祖」が祀られ、在泊中は、船から揚げて各由縁の唐寺の媽祖堂に安置した。
これを「菩薩揚げ」といい、賑やかに隊列を組んで納めたという。
興福寺は、寛文3年(1663)の市中大火で境内の建物はことごとく焼失した。媽祖堂再建の年代は諸説あるが、堂内正面に寛文10年(1670)の扁額「海天司福主」が現存することから、大火後7年目の寛文10年頃には媽祖堂は整備されたものと考えられている。
中央に、本尊・天后聖母船神(媽祖神)、脇立は赤鬼青鬼と呼ばれる千里眼と順風耳。崇福寺と異なり媽祖門がない。建築様式は和風を基調とし内外総朱丹塗、黄檗天井の前廊、半扉、内部化粧屋根裏風天井など黄檗様式を加味し、また軒支輪のある建物は珍しく、貴重な建築資料である。内部の左右側壁には棚が設置され、在泊船の媽姐像を安置する菩薩棚がある。
鐘鼓楼
県指定有形文化財 (昭和37年3月28日指定)
寛文3年(1663)の市中大火のあと元禄4年(1691)に五代悦峰禅師が再興。後に日本人棟梁(高木弥源太・同久治平)により享保15年(1730)位置を変えて再建、その後もたびたび修理が加えられた。
和風建築様式で、重層の上階は梵鐘を吊り太鼓を置き、階下は禅堂に使用された。梵鐘は戦時中に供出して今はない。
上層は梵鐘、太鼓の音を拡散させるため、丸い花頭窓を四方に開き周囲に勾欄を付け、軒廻りには彫刻をほどこし、他の木部は朱丹塗り。
屋根の隅鬼瓦は外向き(北側)が鬼面で厄除け、内向き(南側)が大黒天像で福徳の神という珍しいもの。「福は内、鬼は外」の意味といわれ日本人棟梁の工夫である。
大黒天像 |
鬼面で厄除け |
三江会所門(さんこうかいしょもん)
県指定有形文化財 (昭和37年3月28日指定)
長崎在留の清国人のうち三江(江南・江西・浙江の3省)出身者が明治11年(1878)三江会を設立し興福寺に事務所を置いた。明治13年(1880)その集会場として三江会所が建てられた。
主屋は昭和20年(1945)原爆により大破し、門だけが遺存する。中央に門扉、左右は物置の長屋門式建物で、門扉を中心に左右に丸窓を配し、他は白壁、門扉部分上部の棟瓦を他より高くした意匠は簡素清明。
大雄宝殿と同じ中国工匠の手になるものと思われる肘木(ひじき)、虹梁(こうりょう)、彫刻など細部手法は純中国建築様式で、敷居は高く、これは、豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国民家の様式。
旧唐人屋敷門(長崎市所有)
国指定重要文化財 (昭和36年6月7日指定)
元禄2年(1689)、十善寺郷(現在の館内町)に唐人屋敷が完成。市内に散宿していた唐船主以下中国人は民宿を禁じられ唐人屋敷に収容された。
約3万㎡の広大な敷地内には住宅、店舗、祀堂などが軒を連ね一市街地を形成した。その後数度の火災があったが、天明4年(1784)の大火で天后堂(関帝堂)を残し他はことごとく焼失。
この唐人住宅門だけが民家の通用門として遺存していたのを、昭和35年、保存のため中国にゆかりの深い興福寺境内に移築された。扉は二重で内門は貴人来臨専用。
用材は中国特産の広葉杉、柱上部の藤巻、脂肘木、鼻隠坂、懸魚などに中国建築特有の様式が見られる。建築年代は不明だが、天明4年(1784)大火以降のものと推定される。
中島聖堂遺構大学門(長崎市所有)
県指定有形文化財 (昭和35年3月22日指定)
儒教の祖「孔子」を祀る東京の湯島聖堂、佐賀県の多久聖堂とともに長崎聖堂は、日本三聖堂のひとつ。儒者向井元升が正保4年(1647)に聖堂・学舎を創設した。
寛文3年(1663)市中大火で類焼、一時衰退などあったが、元升の子元成が京より帰来したのでこれを迎えて再興、聖堂を正徳元年(1711)8月に竣成した。
長崎聖堂というが、中島川のほとりにあったので「中島聖堂」と呼ばれた。聖堂は長崎奉行の保護下にあり、壮大な構えであったが、明治初年に廃滅し、杏檀門と規模縮少した大成殿を残すのみとなったので、昭和34年保存のため興福寺境内にに移築。門扉に大学の章句が刻まれているので、俗に大学門と呼ぶ。
魚板(鱖魚けつぎょ)
庫裡(くり)の入口にさがる巨大な魚板、正式名称を「はんぽう」といい、お坊さんたちに飯時を告げるため叩いた木彫の魚。この魚板は全国の禅寺によくあるが、興福寺のものは日本一美しいと定評がある。けつ魚は揚子江に住む幻の魚といわれています。
長年叩かれたので、腹部は凹んでいますが、当時は叩く音が遠くまで聞こえ、山裾までとどいていたそうです。
もうひとつ並んでさがる小振りの魚板は雌で、雄雌一対で懸けられるのは大変珍しい。雄の口にふくむ玉は欲望、これを叩いて吐き出させるという意味をもち、木魚の原型とみなされています。
魚板 雄 |
魚板 雌 |
長崎・黄檗宗東明山 興福寺アクセス
所在地:長崎県長崎市長崎市寺町4-32
アクセス:路面電車:長崎駅前電停から蛍茶屋行き(3系)に乗車、市民会館電停で下車。徒歩約10分。
拝観時間:8:00~17:00
拝観料:個人:一般300円/中高校生200円/小学生100円 ※団体割引あり
興福寺マップ