万寿山 聖福寺
興福寺、福済寺、崇福寺の「三福寺」と併せて「長崎四福寺」とよばれる黄檗宗の由緒あるお寺。
聖福寺は延宝5年(1677)、京都宇治の黄檗山万福寺の末寺として開創された。開基は鉄心道胖(1641-1710)である。
鉄心は唐商陳朴純と長崎の西村氏(松月尼)との間に生まれ、寛文元年(1661)14歳のとき隠元禅師の高弟木庵(もくあん)に師事し、木庵にしたがって宇治の万福寺に上がって修行。
宝永2年(1705)には江戸白金台の瑞聖寺の住職を4年つとめ、再び長崎の聖福寺に帰り住持した。鉄心の後は鉄心の法系の和僧が住職に任じられ、唐僧が住職になることはなかった。後山には墓碑がある。宝永7年10月3日没、70歳
境内には黄檗建築の特徴が多くみられるが建築様式は和風で、崇福寺や興福寺とは違い、鉄心が修行していた宇治・万福寺にならい伽藍様式で朱色塗りを極力さけたているため、2つの寺とはまた違った独特の威厳と静寂を放っている。
幕末維新以後、広東の人たちが多く帰依したため、「広東寺」と称した。
ここ聖福寺は「聖福八景」として多くの文人が詩に詠んでいる。聖福寺は自然の森につつまれ、静かに当時のたたずまいをのこし長崎随一の景観の地である。
大雄宝殿、天王殿,山門などが県の有形文化財に指定されている。
聖福寺山門 |
聖福寺天王殿 |
聖福寺大雄宝殿 |
聖福寺山門 元禄16年(1703)竣工 県指定有形文化財(昭和36年11月24日指定)
堺商人の寄進で棟梁も堺の人。堺で木材を切り組み、海路で長崎へ運んだ。瓦も堺産。三門形式で持送りなどに黄檗様式の特徴が見られる。
聖福寺天王殿 宝永2年(1705)の上棟 県指定有形文化財(昭和36年11月24日)
天王殿という名称は中国伝来のものです。左右を通り抜けとした門。中央に山門側と大雄宝殿側に背中合わせに仏殿がある。山門側が「弥勒堂」で、黄檗宗では弥勒菩薩の化身とされる布袋さんがにこやかに鎮座いている。
大雄宝殿側は「護法堂」で、守り神・韋駄天が釈迦の説法を剣で護っています。仏殿と門を兼用する独特の形式を持ちます。中門、弥勒門、護法堂などの別名がある。棟梁は山門と同じ堺の人です。
聖福寺大雄宝殿 正徳5年(1715)の改築 県指定有形文化財(昭和36年11月24日指定)
釈迦(大雄)を本尊として祀る仏殿。正徳5年(1715)に改築されたもの。棟梁は長崎の人。色彩は扉その他局部にとどめ、素木を主体とするが、細部に黄檗建築の特徴を表す。
正面半扉の浮彫り彩色の桃が珍しい。石造基壇上正面の朱塗り卍崩しの勾欄(手すり)は他に崇福寺媽祖堂の例があるだけ。屋根の釉薬かけ瓦は肥前武雄産であり、長崎では他に例がない。
山門の隠元禅師の書
山門には日本における黄檗宗の開祖・隠元禅師81歳の筆という『聖福禅寺』の扁額が掲げられている。
この山門の建築年代は1703年(元禄16)。しかし、扁額には“寛文12壬子年(1672)”とある。年号を改めると建立以前である。これは、鉄心が隠元禅師にあらかじめ書いてもらっていたものだと考えられる。
梵鐘「鉄心の大鐘」
市指定有形文化財 昭和51年12月15日指定
中門にあたる天王殿をくぐり境内へ入ると。左側に鐘鼓楼がある。
この梵鐘は、享保2年10月(1717)この聖福寺2代目住持、暁巌元明のとき金屋町の3代・藤原朝臣安山弥兵衛国久が改鋳したものです。
元禄7年(1694)初代住持・鉄心道胖のとき、初めて梵鐘が造られたが、僧の鉄心が有名であったので、今日までこの改鋳された梵鐘も、俗に「鉄心の大鐘」と言い伝えられている。
金屋町の3代が鋳造した梵鐘は、この聖福寺の梵鐘だけとなっている。
梵鐘の総高(龍頭を含む) 183㎝ 龍頭 42㎝ 口径 111㎝ 肉厚(鐘厚) 11㎝
大雄宝殿正面半扉の浮彫り彩色の桃 |
鐘鼓楼正面の浮彫り彩色の桃 |
大雄宝殿黄檗天井 |
キリシタン史を物語るじゃがたらお春の石碑
大雄宝殿前の庭には禁教時代の悲話が秘められた「じゃがたらお春」の石碑がある。寛永16年(1639)、キリシタンの禁教政策の一環として多くの混血児と、イタリア人航海士と日本人マリアとの間に生まれたお春も15歳で母、 姉と共にジャカルタ(じゃがたら)に追放された。
以来長崎の幼なじみの「おたつ」に望郷の思いを手紙に綴り、長崎へ送ったといわれている。
この石碑の裏には、そのようなお春を哀れんだ歌人・吉井勇の歌が刻まれている。
『長崎の鶯は鳴く 今もなほ じゃがたら文の お春あはれと』
瓦塀
明治中期築造。大雄宝殿横には珍しい瓦塀がある。これは明治初期、聖福寺の末寺5寺中3寺が廃寺となる際に、廃材の屋根瓦の一部を積み重ねてできたもの。鬼瓦や様々な瓦がはめ込まれた芸術品です。
映画「夏解」の舞台
瓦塀より墓地へ通じる石段を上りきりると聖福寺の屋根越しに長崎の風景が広がります。
長崎出身の歌手・さだまさし氏が地元長崎を舞台に描いた小説『解夏(げげ)』が映画化され、長崎の随所で撮影が行われましたが、その際、ここ聖福寺もロケ地となり、主人公〔高野隆之(大沢たかお)〕が、かくれんぼした幼い日の記憶や、
『解夏』という言葉の意味が明らかになる重要な場所となったところです。
聖福寺石門
市指定有形文化財 昭和55年1月19日指定
長崎草創期前の栄えた大寺、崇岳神宮寺は、盛衰を重ね無凡山神宮寺として明治を迎えたが、廃仏毀釈のため寺は廃滅、金比羅神社となった。この時、仏像仏具その他仏寺に関係する一切が撤去されたが、境内に残されていた石門を明治19年(1886)聖福寺が譲り受け、現在地に移築した。
中央に唐僧木庵筆「華蔵界」の文字を刻むが、木庵は明暦3年(1657)崇岳山頂の絶景を賞して「無凡山」と題し大書した。それが山頂の巨石彫られているが、この石門もそのころの建造と推定されている。
惜字亭(しゃくじてい)
市指定有形文化財 昭和55年1月19日指定
経文その他、寺内の不要文書類を焼却するための炉で、惜字亭という名称は大変奥ゆかしい。
れんが造り漆喰塗りの六角形で、築造は慶応2年(1866)7月といわれている。
幕府の要請により、長崎製鉄所建築指導のため、安政5年(1858)長崎に来た、オランダ海軍技術士官によって赤れんがの製造法がもたらされた。明治元年(1868)12月に建築された小菅修船場跡(国指定史跡)に現存する曳場小屋も、その赤れんがが使用されている。この惜字亭はそれより2年ほど早く、中国人信徒によって築造寄進された。
赤く塗るのは、防腐剤とも魔よけともいわれている。
市川団十郎の供養塔
天保6年(1835)7代目市川海老蔵(7代目団十郎)とその子8代目団十郎が、祖先の供養と子孫繁栄を祈って建てた。
万寿山 聖福寺アクセス
所在地:長崎県長崎市玉園町3-77
アクセス:路面電車/長崎駅前電停から蛍茶屋行き(3系)に乗車し桜町電停下車、徒歩約4分。
聖福寺マップ