唐人屋敷跡
唐人屋敷は、出島とともに海外交流の舞台として重要な役割を果たした。そして、この地からもたらされた文化的経済的影響は大きく、今日の長崎に深く根づいています。
江戸時代、唐人屋敷だったところの館内町(現在)は、長崎らしさを残す坂道、坂段、石畳、細い古道、込み合った軒下の迷路の中に中国文化遺産が市民の生活圏に溶け込んだ、魅力的な街です。
唐人屋敷の歴史
1635年(寛永12年)から中国貿易(唐船の来航地)は長崎一港に制限されていた。
来航した唐人たちは長崎市中の日本人の家に散宿していましたが、貿易の制限に伴い密貿易の増加と密通や混血児の問題、さらにキリスト教禁制の徹底もあり幕府はこれらの対策として、唐人を離絶収容するために、1688年(元禄元年)十善寺郷幕府御薬園(現在の館内町一帯)の土地に唐人屋敷建設を着工し、翌1689年(元禄2年)に完成した。それまで市中に雑居していた唐人たちはここに集め、居住させられました。
広さは約9400坪、周囲を練塀(高さ7尺・約2.1m)で囲み、その外側に水堀あるいは空堀を配し、さらに外周には通路となる一定の空地を確保し、竹矢来で二重に囲むという厳重なもので、入口には門が二つあり、外側の大門の脇には番所が設けられ、人の出入りは厳しく制限された。とくに内側の二の門内は役人であってもみだりに入ることは許されなかった。
内部には、二階建ての瓦葺長屋20棟が建ち並んでいた。一度に2,000人から3,000人の中国人を収容することができたという。
唐人屋敷は、長崎奉行所の支配下に置かれ、管理は町年寄以下の地役人によって行われていました。輸入貨物は日本側で預かり、唐人たちは厳重なチェックを受けた後、ほんのわずかな手回り品のみで入館させられ、帰港の日までここで生活していた。
1784年(天明4年)の大火により天后堂(関帝堂)を残して全焼しましたが、その後1787年再建された。
1859年(安政6年)の開国で唐人屋敷は廃屋化し、さらに1870年(明治3年)火災があり残っていた中国人は居留地の十人町や新地へ移動した。
主な貿易品
【輸入品】 生糸、高級絹織物、砂糖、鹿皮、金属、蘇枋木(染料)、にくずく(健胃薬)など。
【輸出品】 銀、銅、俵物(干し鮑、干し海鼠)、海産物(昆布、スルメ、トコロテン草、鰹節、干し鰯)など
唐人屋敷内四隅モニュメント
唐人屋敷跡の範囲を今に残すように「唐人屋敷地内四隅モニュメント」が設置されている。
北西隅モニュメント |
南西隅モニュメント |
南東隅モニュメント |
北東隅モニュメント |
土神堂(どじんどう)
長崎市指定史跡(昭和49年10月15日)
「土神」とは「福徳正神」ともいわれ、土地や家を守り、豊作の神様として中国では古くから広く民衆の間で信仰されてきた。
1689年(元禄2)唐人某が夢のなかで土公神を見て、その像を唐土で刻ませ舶載したものを、唐人屋敷内の石祠に祀ったのが始まりといわれている「長崎市史年表」。
土神堂は1691年(元禄4)、土神を祀る石殿を建立したいという唐船の船主らの願いが許され建立された。1784年(天明4)の大火で焼失したが、興福寺などの唐三か寺や華僑たちによって復旧され、その後も数度にわたり華僑たちによって改修された。
1950年(昭和25)老朽化および原爆の被害を受け石殿だけを残し解体される。現在の建物は、1977年(昭和52)に長崎市が復元工事した土神堂である。
唐人屋敷時代の堀跡
来舶唐人が居住していた唐人屋敷は当時(1689~1859年)、内外を隔絶するために周囲を練塀で囲み、その外側に水堀や空掘を設け、さらに竹矢来で二重に囲まれていた。
その当時の堀の跡が、川底に石が敷き詰められた森橋、天后堂裏の側溝や、森伊橋、榮橋の付近にみられる。
写真のアーチ型石橋は、次に紹介する森橋。
森橋
地元の富豪・森伊三次氏の寄贈で唐人屋敷敷地境に堀にかけられたアーチ型の石橋(アーチの差し渡し(径間)2.9m・橋幅2.8m)。
親柱に「明治二十五年一月架」(1892年)と彫られている。また、「寄附者 森伊」(その下は剥離)の文字がみられる。
1870年(明治3)、火災で焼失した唐人屋敷の払い下げを受け道路、橋を整備した地元の富豪。
現在の茂里町地区は、当時「浦上村里郷」と呼ばれていた。ここは浦上川からの土砂の堆積が進み、湾の奥から浦上川河口にかけて干潟が現れていた。
森伊三次氏は、浦上川の埋立てに私財を投じ土地の新田開発に尽力し、この地の大半に及ぶ広大な土地を拓き所有していた。
開発当初は「森町」と呼ばれていたが、1913年(大正2)、長崎市域すべての郷名を町名に変える事業が始められたとき、自らの名前から里が茂(森)る(栄える)ようにという意味を込め茂里町が生まれた。
1897年(明治30)現在の浦上駅(旧長崎駅)まで鉄道が開通し、森伊三次氏は駅舎用地など約15,000坪を寄付している。
天后堂(てんこうどう)
市指定史跡(昭和49年10月15日)
1736年(元文元)、南京地方の人々が航海安全を祈願し、天后聖母(媽祖)を祀る。天后堂は関帝(かんてい)も併祀しており、別名「関帝堂」とも呼ばれている。
関帝とは中国三国時代の武将・関羽を指し、関聖帝君(かんせいていくん)と呼称される事が多い。財神、護国救民の神として崇信された。
祭神:天后聖母(媽祖)の左右に侍婢、その前に順風耳、千里眼の像が祀られてある。1784年(天明4)大火により唐人屋敷は全焼するが天后堂は残った。1790年(寛政2)修復。
「長崎名勝図絵」では、門外左右の旗竿に、天后聖母の字が書かれた紅旗をあげ、風にひるがえっているのがみえる。
現在の建物は1906年(明治39)全国の華僑の寄付で再建されたもの。
森伊橋
地元、館内に住む富豪・森伊三次氏の寄贈で堀にかけられた石橋。
天后堂の裏手に四隅モニュメント(南西隅)がありその近くの、館内、稲田、中新、十人町の4つの町が出会う珍しい場所にある。
また、近くに見られる「栄橋」も森伊三次氏が寄贈された橋である。
空堀跡
架かっている橋は「栄橋」で、1886年(明治19)架設。
長崎市内ではほかに例を見ない複雑なつくりになっていて、貴重な土木遺産である。
栄橋の両岸は段差があって、低いほうの岸には石が積み上げられ、階段がついている。長さが2.4mと短い橋なのに幅は3.6mもあり、立派な親柱がついていて、小さいながらも豪華である。
橋下の堀は唐人屋敷時代の堀で石張りになっていいる。
唐人屋敷時代の石積み
唐人屋敷は、周囲を練塀で囲み、その外側は空堀及び仁田川を利用した水堀を巡らしていました。
この場所は唐人屋敷南端付近の空堀推定ラインにあたり、発堀調査で空堀遺構が確認され、堀の石積み部分を地上部に一部再現された。
コミュニティ住宅裏遺構広場
唐人屋敷時代の堀跡を確認できる広場。
四隅モニュメント南東
観音堂(かんのんどう)
市指定史跡 昭和49年10月15日
瓢箪池の奥の石の刻字で「元文2年(1737)…」に建立されたと思われる。
1784年(天明4)に焼失し、1787年(天明7)に再建され、その後、数回の改修があった。
現存する建物は、1917年(大正6年)に、華商の鄭永超が改築したもの。基壇には「合端(あいば)積み」の石積技法が見られ、沖縄的な要素もうかがえる。
本堂には観世音菩薩と関帝が祀られています。観世音菩薩は中国民衆に、慈悲深い神として慕われている菩薩である。入口のアーチ型石門は唐人屋敷時代のものと言われている。
基壇の「合端合わせ」 |
基壇に刻まれた再建の年号 |
観音堂入口のアーチ型石門 |
福建会館(正門・天后堂)
長崎市指定有形文化財 平成12年4月28日指定
福建会館(星聚堂)は、1868年(明治元年)に福建省泉州出身者により創設された「旧八閩(はちびん)会所」で、媽姐(まそ)神を祀る唐寺。
1888年(明治21年)焼失。
その後、1897年(明治30年)に全面的に改築され、福建会館と改称された。本館の建物は原爆により倒壊したため、正門と天后堂のみが現存している。
正門は、三間三戸の藥医門形式で、中国風の要素も含んでいるが、組物の形式や軒返り絵様の細部など、主要部分は和式の造りとなっている。外壁煉瓦造りの天后堂は架構法なども純粋な中国式、一部木鼻や欄間は和式。
境内には孫文の銅像が建立されている。
媽姐(まそ)神 |
媽姐神祭壇 |
孫文銅像 |
長崎・唐人屋敷跡界隈アクセス
所在地:長崎県長崎市館内町
路面電車:長崎駅前電停~崇福寺(1番系)行きに乗車、新地中華街電停下車徒歩約10分
唐人屋敷跡界隈マップ