長崎・鎮西大社諏訪神社
鎮西大社諏訪神社と称えられる長崎の総氏神様で、諏訪・森崎・住吉の三社がお祀りされ、厄除け・縁結び・海上守護の神社として崇敬されています。
1555年(天文24)頃には、諏方社は長照寺前の(現在・諏訪町)に、住吉は小島郷尾崎(現在・正覚寺付近)、森崎は長い岬の突端(現・県庁付近)に祀られていた。長崎は1567年(永禄10)からキリシタン布教が始まり、長崎はイエズス会領となり1569年(永禄12)にはキリシタンによって長崎の神社や寺は破壊、焼き払われた。諏方社など三社は、1609年(慶長14)に破却・焼却されている。
1625年(寛永2)、修行者の金重院・青木賢清が長崎奉行の許可を受けて、諏訪・森崎・住吉の3社を西山郷丸山(現在の松森神社の地)に再興。1634年(寛永11)長崎奉行は諏方社を長崎の氏神と定め、祭礼日を旧暦9月7日と9日とし、同年より諏方社祭礼長崎くんちが始まった。
1648年(慶安元年)、社殿が玉園山に造営され、「玉園山神宮寺」という山号・寺号を賜る。1669年(寛文9)朱印地を得て、1683年(天和3)神宮寺の寺号を廃し、唯一神社となる。1723年(享保8)正一位に叙せられた。
1857年(安政4)、不慮の火災に遭い社殿の殆んどを焼失するが、孝明天皇の思し召しにより再建がなされ、1869年(明治2)に社殿が完成した。昭和59年の御鎮座360年祭、平成6年の370年祭にあわせて二度の記念造営を行い、現在の社殿が完成された。
鎮西大社諏訪神社拝殿 |
大門・長坂と踊り馬場 諏訪神社の顔と言うべき門。大門 73段の石段の長坂 |
御祭神
主殿神 梶の葉 |
相殿神 三巴 |
相殿神 三蓋松 |
鎮西大社諏訪神社鳥居
一の鳥居
1835年(天保6)、今紺屋町の森田喜兵衛氏らが青銅製の鳥居を建立。のちに台風により倒壊、戦時中の金属供出で鳥居を撤去。1952年(昭和27)、戦後講和記念として橋本和太八氏ら6人の奉納により、鉄筋コンクリートで一の鳥居が再々建立された。江戸中期頃、一の鳥居の処には「小橋」という橋があり、その跡として鳥居の側に橋の欄干が残されている。
二の鳥居
1637年(寛永14)建立。諏訪神社に現存する鳥居の中で最古。最初は一の鳥居だった、石材は風頭石(安山岩)といわれる。
三の鳥居
1877年(明治10)3月、荒木伊三郎氏が建立。
四の鳥居
1923年(大正12)10月、諏訪神社鎮座300年を記念して建立。
五の鳥居
1935年(昭和10)9月、松岡氏他12名が寄進建立。
流鏑馬(やぶさめ)馬場(別名:横馬場)
諏訪神社参道から松森神社までの通りをいいます。流鏑馬とは馬を走らせ矢で的を射る儀式のことで、江戸時代、諏訪神社の神事終了の日、ここで流鏑馬が行われていました。
まよひ子志らせ石(迷い子知らせ石)
諏訪神社祭事の際、人ごみにもまれて親を見失う子等が余りにも多いため、明治12年(1879)長崎警察署に在勤する警部一同の手によって建立された。
正面に「まよひ子志らせ石」、北面(左側)に「たづぬる方」、南面(右側)に「をしゆる方」と刻んであります。
雑踏で子供とはぐれた親は自分の連絡先と子供の名、年格好を書いた紙を「たづぬる方」と刻んである面に貼り、一方、子供を保護した人は、その子の名、年格好、保護したした人の連絡先等を書いた紙を「をしゆる方」と刻んだ面に貼り。親の来るのを待った。
やがて子は再び親の懐にだ抱かれ、人々の暖かい思いやりに涙して手を合わせ、しっかりと手を握り合い去る姿は数知れなかったといわれる。
この石碑は、建立当時は一の鳥居左脇に建っていた。
縁結びの陰陽石
諏訪神社参道の敷石には、陰陽石、男石(陽石)と女石(陰石)が、幾何学的な紋様で埋め込まれてあります。男性は女石(陰石)、女性は男石(陽石)を踏んだ後、拝殿前の両性合体石を踏んで参拝すると、縁結びの願い事が叶うと言われています。
男石(陽石) |
女石(陰石) |
両性合体石 |
諏訪神社にはユニークな狛犬が多い、お参り後は狛犬散策もいいものです。
立ち狛犬・逆立ち狛犬 |
止め事成就の狛犬 |
高麗犬の井戸【銭洗い井戸】 |
願掛け狛犬 |
カッパ狛犬 |
トゲ抜き狛犬 |
厄難除け蛙岩
諏訪神社ご鎮座当時の古図には、この岩にしめ縄を張り、柵を廻らかしてあり、古くから信仰されていたことが判ります。
昭和57年の長崎大水害の折、裏山が崩れ落ちたが、蛙岩が土砂を防ぎ止め、ご社殿を守ったことで「厄難除け」としての信仰が増し、諏訪神社では蛙岩にちなみ、「厄難除け蛙守り」として小さな陶製のお守りがあります。
「出したお金もまたかえる」「旅行から無事かえる」との縁起により評判だそうです。
祖霊社(それいしゃ)上り口の狛犬一対
以前諏訪神社の斎庭にあったもので、ご鎮座以来置かれていたと思われている。
長い歳月に風化が甚だしい。巻き毛のたてがみは独特の形態で珍しく、阿形(あぎょう・口を開いている)の狛犬は口に玉を含み中国の影響が見られる。
祖霊社(それいしゃ)
文化6年(1809)長崎の総町が施主となって、諏方社境内に康平社(図書明神とも)を新設し松平図書頭の霊を祭る。
文化5年(1808)にイギリス軍艦フェートン号の長崎入港事件の責任をとって自害した第82代長崎奉行・松平図書頭康平(まつだいらずしょのかみやすひら)を慰霊するため御霊を勧請奉祀した社で、元は図書明神また康平社と称された。
その後、諏訪神社再興当時の第5代長崎奉行・長谷川権六藤正の霊舎及び氏子祖先の御霊を合祀し、明治8年官許を得て「祖霊社」と改称された。
以後諏訪神社の祀官を初め神葬の御霊を合祀しつつ、奉祠されている。
※ 松平図書頭康平の墓は長崎市鍛冶屋町の大音寺境内にあります。
祖霊社祭…春分の日・秋分の日
長崎・鎮西大社諏訪神社アクセス
所在地:長崎県長崎市長崎市上西山18-15
路面電車:長崎駅前電停から蛍茶屋行き(3系)に乗車、諏訪神社電停で下車。徒歩約2分。
鎮西大社諏訪神社マップ
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