長崎・坂本国際墓地

自国に戻ることが出来なかった外国人も眠る坂本国際墓地
          説明文 銘板碑文等参考

長崎・坂本国際墓地に眠る人々

 1888年(明治21年)、大浦国際墓地の閉鎖にともない、同年浦上山里(現・坂本町)に新設された外人向け墓地で、現・南側に5,594平方メートルの広大な土地に377区画の墓を備えた坂本国際墓地。
 その後、外国人の急増にともないのこの南側がいっぱいになり、1903年(明治36年)、坂本国際墓地と道を挟んだ北側に85区画(新坂本国際墓地)が増設され現在では70基の墓碑が建てられている。
 南側の入り口付近には、原爆で被爆しながらも医療活動を続けられた永井隆博士と妻の緑さんの墓があります。入口を抜けると1892年(明治25年)にユダヤ商人M.・ギンズバーグとN・.メスによって設けられたユダヤ人墓地や、1900年(明治33年)の義和団事件で戦死したフランス兵士が眠る墓地、奥の方にはグラバーの弟妹などの墓があります。
 北側の新坂本国際墓地には、日本の産業、経済、教育などの発展に多大な貢献をしたトーマス・グラバー夫妻や、倉場富三郎の墓、ウイルソン・ウォーカーの墓、その他、自国に戻ることが出来なかった外国人の墓があります。
 この墓地には、墓石のない墓も多い、おそらく簡粗な木の十字架が建てられ、長年の歳月を経て消滅したのだろう、また原爆の爆風で倒れたままの墓碑も見られる。
 This cemetery was established after the closing of Oura International cemetery in 1888 and was expanded across the road in 1903.
 Many of the people buried here, including Thomas Glover and his son Tomisaburo Kuraba, made important contributions to the industrial, economic, and educational development of Japan.
 Dr.Takashi Nagai, atomic bomb survivor and well known author, is also buried here.

[長崎坂本国際墓地]南側区画

 長崎市名誉市民・永井隆の墓碑  ユダヤ人区域  ベトナム人区域  フランス人兵士区域
 トーマス・B・グラバーの弟妹たちが眠る墓碑  ロバート・ウォーカー・ジュニアの墓碑

長崎市名誉市民・永井隆の墓碑

長崎市名誉市民・永井隆の墓

 長崎市の最初の名誉市民となった永井隆博士の墓は、南側墓地の入り口横にあり、愛妻の緑さんと共に眠っています。墓碑には、パウロ永井隆(1908-1951)、マリナ永井緑(1908-1945)と刻まれてある。
 医学博士でありカトリック信徒だった永井隆博士は、原爆によって愛妻を亡くし、自分もまた被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と多くの著作の発表を続けた博士も、二重の放射線障害をうけた白血病に倒れ、1951年(昭和26年)5月1日に長崎大学医学部付属病院で亡くなりました。
 亡くなった後、3日には浦上カトリック教会葬、14日には長崎市公葬が行われた。長崎市内の鐘が鳴らされ、約2万人の人達の参列に見守られ、この坂本国際墓地に埋葬された。また、原爆によって亡くなった愛妻・緑さんと共に眠っている。
 今日も、訪れた人々が千羽鶴を捧げていた。博士が好きだった白バラも

長崎市名誉市民・永井隆の墓碑 永井隆が好きだった白バラ 長崎市名誉市民・永井隆の墓入口

ユダヤ人区域

ユダヤ人区域墓地

 長崎外国人居留地には多くのユダヤ人が生活していた。現在唯一、長崎の地にユダヤ人社会があったことの名残りを留めているのが、このユダヤ人区域墓地。
 この区域の中央に胸像(国際墓地で唯一)があるが、彼はジークムント・D・レスナー(1920年2月24日死亡・61歳)。ユダヤ人(帰化オーストラリア人)の商人で、1883年(明治16)長崎に来て、梅ヶ崎で雑貨店を経営。彼は日本で最初のユダヤ教会堂を建立、また、道を造ったり、街並みをきれいにしたりして、随分と長崎に貢献をした人物です。
 知名度、人望共に余人の追随を許さない故人のために、あらゆる国籍、業種、宗教の外国人たちが葬儀に参列した。
 入口のアーチには“BET-OLAM”(永遠の住まい)」と刻まれている。そのアーチの右の石柱には西暦1893年、そして左の石柱にはユダヤ教の年号に従って5653年の数字が刻まれている。

ジークムント・D・レスナー胸像

ジークムント・D・レスナー胸像/

ユダヤ教の年号に従って5653年

ユダヤ教の年号に従って5653年/

石柱には西暦1893年

石柱には西暦1893年/

アーチには“BET-OLAM”(永遠の住まい)」

アーチには“BET-OLAM”(永遠の住まい)

ベトナム人区域

ベトナム人区域墓地

 ここには1900年(明治33)に中国で起きた義和団事件で、フランス軍に雇われた下働きのベトナム人4人が戦死。ン・ヴァン・トゥ、ン・ヴァン・ナム、フイン・ヴァン・タン、ラ・ヴァン・フォンの4人、遺体はベトナム人区域81~84番に埋葬。長崎で病死したフランス軍艦の機関員の計5名が眠っている。
 義和団事件とは、中国,清朝末期におこった外国排斥運動。北清事変ともいう。列強勢力やキリスト教の進出に反感をもった民衆は,宗教結社の義和団に入って鉄道や教会をおそった。

フランス人兵士区域

フランス人兵士区域墓地

 1900年(明治33)、フランスが兵士のための墓地を購入。
 中国の義和団事件で戦死した兵士や船員が多く眠っている。中央には大きな石造の記念碑がある。
 坂本国際墓地は中国義和団事件で死去した兵士や船員の埋葬で南側の区画がいっぱいになり北側の区画に1903年(明治36年)新坂本町国際墓地を新設。
 坂本国際墓地の埋葬者数(325)
 イギリス(103)、アメリカ(73)、フランス(56)、ドイツ(29)、イタリア(14)、ポルトガル(11)、オーストリア(9)、ベトナム(8)、ロシア(7)、日本(3)、スウェーデン(2)、ノルウェー(2)、デンマーク(1)、ギリシア(1)、不明(6)

トーマス・B・グラバーの弟妹たちが眠る墓碑

トーマス・B・グラバーの弟妹たちの墓地

 北側の新坂本国際墓地に眠るトーマス・B・グラバーの弟妹たちが車道を隔てた南側(373~375番)に、若くして未亡人となったグラバーの妹マーサ・アン・ジョージ、ポルトガル領事などで活躍した弟のアルフレッド・B・グラバー、グラバーの長兄の一人息子、甥のトーマス・ベリー・グラバー(32歳で死去)の墓が並んで埋葬されている。
 この坂本国際墓地にグラバーの弟妹たちが並んで眠っていることはあまり知られていない。

ロバート・ウォーカー・ジュニアの墓碑

 1958年8月22日76歳で死去 南側奥(379番)に眠る。
 兄のウイルソンと協力炭酸飲料商会(ウォーカー商会)設立
 初期の日本海運業界に多大な功績を残した英国人ロバート・N・ウォーカーの次男。
 ウォーカー・ジュニアの旧邸がグラバー園内にある。

[新坂本国際墓地]北側区画

 グラバー家の墓碑 トーマス B.グラバー(1838~1911)  倉場富三郎(1870~1945)墓碑  ウィルソン・ウォーカーの墓碑

グラバー家の墓地 トーマス B.グラバー(1838~1911)

グラバー家の墓地 トーマス B.グラバーの墓碑

 一番奥の左側(5-1・5-2番)にトーマス B.グラバー夫妻と、その子倉場富三郎夫妻が眠っています。
 イギリス人、トーマス B. グラバーは、長崎開港後の1859年(安政6年)、長崎に渡来し、大浦海岸通りにグラバー商会を設立して貿易商を営みました。
 江戸時代末期には、坂本龍馬などの維新の志士たちを援助し、事業では、1865年、大浦海岸で日本初の蒸気機関車アイアン・デューク号を走らせた、長崎の小菅に船工場「ソロバンドック」を建設、長崎港外で「高島炭坑」を開発するなどと日本の近代化に果たした役割は大きい。
 グラバーは、1911年(明治44)12月16日、慢性腎炎の発作に襲われ息をひき取り、73年の生涯を終えた。しめやかな葬儀が東京の教会で行われ、遺骨はその後長崎へ戻り、ここ坂本国際墓地に埋葬された。

倉場富三郎(1870~1945)の墓碑

倉場富三郎の墓碑

 トーマス・B・グラバーの子として生まれた。母は日本人淡路屋ツル。
 わが国初の蒸気によるトロール漁業の技術を導入をするなど日本の水産業の近代化に貢献した。
 また、トロール漁業の導入により、底引き網にかかる様々な魚類を見た富三郎は、分類学的研究ができる魚類図鑑をつくろうと思い、5人の画家に魚の絵を描かせ、21年の歳月をかけて「グラバー魚譜」を完成させた、内容は全部で805枚からなり、魚類の他、甲穀類や軟体類など約500種を収録。
 混血として生まれた富三郎は、日本と外国をつなぐ仲立ちになろうと懸命な努力を重ね、長崎の人と外国人との社交クラブ「内外倶楽部」の開設計画に参加、1903年(明治36)に出島に完成。日本初の大衆向けゴルフ・コース「雲仙ゴルフ場」の開設にも力を注ぎました。
 妻ワカは1943年(昭和18)5月4日に死去。富三郎は終戦間もない1945年(昭和20)8月26日自宅で自らの命を絶った。妻ワカと共にトーマス・B・グラバーの横で眠る。

ウィルソン・ウォーカーの墓碑

ウィルソン・ウォーカーの墓碑

 ウィルソン・ウォーカーは、1914年(大正3)11月4日、長い闘病生活の末、南山手の自宅で死去。
 遺体は子供たちに見守られ、新坂本国際墓地(32番)に埋葬される。
 ロバート・N・ウォーカーの兄ウィルソン・ウォーカーは1845年(弘化2)生、イギリス出身で、1868年(明治元)に長崎に来崎し、グラバー商会に雇われ、その後ホームリンガー商会に移ります。そして1874(明治7)年には郵便汽船三菱の監督船長に抜擢され翌年日本初の海外定期航路(横浜-上海)開設に重要な役割を果たした。
 その後1885年(明治18)に日本郵船会社(NYK)を設立して退きます。またこの年、トーマス・グラバーと共にジャパン・ブルワリ・カンパニー(のちのキリンビール(株))を設立、重役(筆頭株主)として日本のビール業界を確立させる。
 1893年(明治26)まで務め、1894年家族と共に長崎へ移り住み、クリフ・ハウス・ホテル(南山手町10番地)を購入し経営者となります。

「R.I.P」の文字

「R.I.P」の文字 「R.I.P」の文字

 多くの墓碑に刻まれている文字「R.I.P」がある。これはラテン語Requiescat in Paceの頭文字で、短い祈り「安らかに眠れ」の略形。国際墓地の墓碑に刻まれている碑文には、愛する人の死が悲しみだけに終わらない祈りと信仰の証が込められている。

長崎坂本国際墓地アクセス

所在地:長崎県長崎市長崎市坂本町一丁目
アクセス:路面電車:長崎駅前から赤迫行きに乗車し、浦上駅前電停で下車、徒歩8分。

   ウイルスバスター公式トレンドマイクロ・オンラインショップ
   デル株式会社