長崎・聖寿山 崇福寺(そうふくじ)

大雄宝殿と第一峰門は国宝建築です。
          説明文 銘板碑文等参考

黄檗宗 聖寿山 崇福寺

 聖壽山崇福寺は、黄檗宗の寺院で、興福寺・福済寺とともに「長崎三福寺」に数えられる。
 長崎唐寺(とうでら)は、キリシタン弾圧が厳しかった時代の寛永年間(1624-1643)、キリスト教禁令下において中国の人たちは仏教徒であることを示すために出身地別に長崎唐寺を建立したともいわれる。
 崇福寺は、寛永6年(1629)、福州地方出身の長崎在住唐人が中心となって、唐僧・超然(ちょうねん)禅師を招き創建した黄檗宗寺院で、福州出身者で建立されたことから「福州寺」とも呼ばれていた。
 当初、長崎唐寺の特色は宗教的行事ではなく、航海安全の祈願や先祖供養を主としており海の神様である媽祖を祀る「媽祖堂(まそどう)」をもつことであった。その後、寄進によって大雄宝殿や山門、媽姐堂などの整備が進み寺院としての機能を持つようになった。
 承応3年(1654)、唐僧・隠元禅師が渡来、「興福寺」住職として滞在され、翌明暦元年(1655)には、崇福寺にも進み、2ヶ月住して法を説かれた。隠元禅師の高弟で大雄宝殿の扁額「世尊(釈迦の意)」を書いた即非如一(そくひにょいつ)や、 即非禅師の高弟で大釜を造らせ施粥を行った千呆禅師(せんがいぜんじ)などは崇福寺の歴代の住持である。
 崇福寺には、竜宮門を思わせる三門や珍異奇功を極めている第一峰門がある。第一峰門と大雄宝殿は国宝に指定され、そのほかにも国指定重要文化財5、県指定有形文化財3、市指定有形文化財6、県市指定史跡5を持つ文化財の宝庫。
 旧暦の7月26日~28日の3日間は全国から華僑の人たちが集まり盛大に中国盆会が開催され、華やかな中国情緒を漂わせている。

三門(楼門)

 国指定重要文化財 昭和25年8月29日指定

崇福寺・三門 聖壽山の扁額

 写真のように華麗の形から別名竜宮門とも言われる。1673年(寛文13)に創建された当時は、三間一戸八脚門入母屋造り単層で、現在のものとは全く形の異なるものであった。1766年(明和3)長崎大火によって焼失。その後再建された門は、1826年(文政9)の台風によって倒壊。
 現在の三門は、游龍彦十郎・鄭幹輔の発願によって1849年(嘉永2)に再建されたもので、日本人棟梁大串五良平の手による。
 中央にある『聖壽山』の扁額は隠元禅師の筆といわれる。
 「三門」は三解脱門の略とされ、悟りの境地に至るために通る三つの門、「空解脱門」「無想解脱門」「無作解脱門」を意味する。

三門を抜け階段脇の袖石

 三門を抜けた階段の脇に置かれた袖石には、西王母伝説の長寿の桃、3千年に一度実をつけ、食べると寿命が延びるといわれる生命の果実桃。
 裏には鯉の滝登りの縁起物の彫刻があります。中国で鯉は龍門という急流を登りやがて龍になるとされ、これを「登竜門」という鯉は出世魚として尊重された。

袖石(長寿の桃の彫刻)

 長寿の桃の彫刻

袖石(鯉の滝登りの彫刻)

 鯉の滝登りの彫刻

崇福寺第一峰門(だいいっぽうもん) 国宝

 国宝 昭和28年3月31日指定

国宝・第一峰門

 唐門・海天門・二の門・中門・赤門ともいわれている。中央に即非禅師の書である「第一峰」の扁額がある。当初はここが第一門であったが、この下段西向きに、新たに三門(楼門・竜宮門)が建立され、ここは二の門となるが第一峰門という。
 「第一峰門」の名称は扁額の文字が由来。
 創建は1644年(寛永21)、現在の門は1695年(元禄8)に中国・寧波で材を切組み、運ばれたものを再建したものである。横額の表、「崇福禅寺」は唐通事林仁兵衛(林守)、裏の「海天華境」は林大卿(楚玉)の寄進で、父子による寄進。裏側の横額の文字が「海天門」の由来。なお、1655年に隠元を迎えたときの山門は、この第一峰門。

「四手先三葉栱(よてさきさんようきょう)」

第一峰門の軒下に四手先三葉? 吉祥模様

 第一峰門の軒下に四手先三葉E6A0B1と呼ばれる複雑巧妙な詰組みは国内に例がなく、華南地方にもまれと言う。
 軒下軒裏には極彩色の吉祥模様(宝づくし/瑞雲・丁子・方勝・霊芝)が施され、雨がかりやすい部分は朱丹一色塗りにしてある。

「第一峰門の扉」

第一峰門の扉 蝙蝠の縁起物

 第一峰門の扉には青い蝙蝠(こうもり)と牡丹の花が。
 蝙蝠は(びぇんふー)と中国で発音し「蝠」が「福」と同じ発音で幸福を、牡丹の花は百花の王、強さを表す縁起物。

崇福寺大雄宝殿(だいゆうほうでん) 国宝

 国宝 昭和28年3月31日指定

崇福寺大雄宝殿 崇福寺大雄宝殿2

 釈迦(大雄)を本尊とする大雄宝殿は、唐商大檀越(だいだんおつ)何高材(がこうざい)の寄進により、中国にて切組み唐船で運び1646年(正保3)に建立された。市内に残る最古の建物。
 この大雄宝殿は、当初は単層、平屋建てであったが、1681年(天和元)の頃、日本人棟梁の手により上層部分が付加され2階建てに重層化された。下層(1階)は黄檗様式で上層(2階)は和様であるが、一見何の違和感もなく調和している。
 前廊部分の黄檗天井(アーチ型天井)、軒周りの逆凝宝珠束など黄檗建築の特徴が見られる。
 1階屋根軒丸瓦の瓦頭には崇福寺の「崇」、2階屋根瓦頭には「福」の文字がある。

 大雄宝殿の本尊は釈迦如来坐像を祀り、向かって右脇侍に迦葉(かしょう)尊者、左は阿難(あなん)尊者ともの立像を従えている。みな中空の乾漆像。仏像群は仏師徐潤陽ほか2名の作。 三尊は1653年(承応2)造で、1935年(昭和10)頃の仏像修理の際、内部から「銀製の五臓」「布製の六腑」が胎内から発見された。内臓模型を入れるのは「生き身の釈迦」としてインドに伝説があり、金属製の内臓をもつのは我が国でもめずらしい例である。
 左右に並ぶ羅漢は中空の寄せ木造りで麻布を置き漆で固めたもの、1677年(延宝5)に作られた。普通は十六羅漢体であるが、宇治の万福寺と同じように、賓頭廬と慶友尊者が加わって十八羅漢となっている。

黄檗天井

前廊の黄檗天井(アーチ形の天井)

逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしつか)

軒周りの逆凝宝珠束(ぎゃくぎぼしつか)

護法堂(ごほうどう)

(天王殿・関帝堂・韋駄殿・観音堂) 国指定重要文化財 昭和25年8月29日指定

護法堂

 1731年(享保16)中国工匠により再建された。扁額「護法蔵」の文字は即非の書。
 中央に観音堂を、向かって右が関帝堂(関聖帝(関羽)を祀る)、左手が天王殿(韋駄天を祀る)が祀られてある。他の黄檗宗寺院(宇治の万福寺、長崎の聖福寺)では門の形式を残しているため、天王殿と言われているが、崇福寺では即非の「護法蔵」の額によってこの名が付けられ、仏殿として建てられている。
 寺の創建時には天王殿、関帝堂、五帝堂とそれぞれ別々になっていたようである。建築については、中国の切り組み材を用いたものであるが、破風や懸魚など日本的な様式も見られる。
この護法堂には面白い言い伝えがある。
 関帝像前に菓子や食べ物を供えると、よくねずみに食べられるので、ある日、即非禅師が関聖像に向かい、ねずみに食べられる罪を責めて右の頬を打つと頬の部分が剥げてしまた。翌朝見ると、韋駄天の剣がねずみを刺しており、まるで関聖の命令で韋駄天がねずみを退治したようだったそうです。 悔いた即非が、関聖帝像の右頬の修理をさせましたが、剥げた部分にいくら漆を塗っても剥げ落ちたという。今もその跡が残っているようだ。

鐘鼓楼(しょうころう)

 国指定重要文化財 昭和25年8月29日指定

鐘鼓楼 

 重層の上階に梵鐘を吊り、太鼓も置いてあり、鐘楼と鼓楼を兼ねている。創建は、1647年頃とされている。その頃は寺の最南隅にあり港の唐船から媽祖門、媽祖堂がよく見えたという。現在の鐘鼓楼の位置には大釜が置いてあり、1728年(享保13)、現存の鐘鼓楼が再建されたときに現在の場所に移っている。
 1728年(享保13)の年号と木匠荒木治右衛門の墨書がある。上層は、梵鐘や太鼓の音を拡散させるために、丸窓・火燈窓等の開放された開口部が多い。

梵鐘 (ぼんしょう)  県有形文化財指定 昭和35年7月13日指定
 梵鐘は、1647年(正保4)鍛冶屋町の初代鋳物師阿山助右衛門の作。長崎市内の寺院の梵鐘を6個鋳造しているが、今ではこの鐘だけが残っている。
 鐘銘に当時の檀越名と寄進額が刻まれてあり、29名、554両に上がっている。

大釜(おおがま)

 市指定重要文化財 昭和43年11月20日指定

大釜

 1681年(延宝9)長崎が大飢饉に襲われ、餓死者もでた。その救済のために2代目住職千凱(千呆)が托鉢に出て、自分の書籍や衣類、道具までも売り、庶民に粥を配っていた。施しを受けるものは連日数千人を超え、翌年になっても、更に飢餓がひどくなったため、1682年(天和2)に鍛冶屋町の阿山家二代目鋳物師安山(あやま)弥兵衛に大釜を造らせ、この大釜で粥を炊き、多くの難民を救ったといわれる。
 重さ:約1,200kg、深さ:1.7m、直径:1.86m、釜代は1貫300目と伝える。
 一度に米630kg(約10俵)、三千人分の粥が炊けたという。(一人茶碗一杯と仮定)

媽祖門(まそもん)

 国指定重要文化財 昭和47年5月15日指定

媽祖門

 現存の媽祖門は、1827年(文政10)に再建されたもので、媽姐堂の門として、また大雄宝殿と方丈(僧堂)を結ぶ渡り廊下としての役割も兼ねている。八脚門三間三戸形式で、扉の前部は黄檗宗特有の黄檗天井で後部は山形(船底)天井となっている。
 媽姐堂があるのは長崎の唐寺の特徴であるが、媽祖門を構えた媽祖堂は、崇福寺のみである。

媽祖堂(まそどう)

 県指定史跡 昭和35年7月13日指定

媽祖堂

 1794年(寛政6)の再建、基壇上にある「卍崩し」の木製勾欄が特徴。前廊の黄檗天井、半扉その他の黄檗様式と和様の細部様式とが混在している。
 媽姐(海上守護神で別名を天后聖母・天妃・菩薩)を祀ったお堂で、長崎の唐寺だけに見られる。向かって右に順風耳、左に千里眼の立像がある。当時の当船主らが海上安全を祈願して建てた。
 当寺の媽祖さまは市内で唯一衣装を着けており、数年に一度女性により着せ替えられる。 堂と門の間の石畳は、1671年(寛文11)に造られたもので長崎でも最も古い時代のものだと言われている。

魚板・刹竿(せっかん)

魚板 刹竿(せっかん)

魚板
 1831年(天保2)三門建築の棟梁・大串五良平らが寄進したもの。
木魚の原型。魚の形をしているのは、魚は常に目を見開いていることから「惰眠(だみん)をむさぼるなという戒めの意」であるという。
刹竿(せっかん)
 旗竿石、港内から望見できる目印の旗を立て、媽祖神の菩薩揚げ、菩薩卸し行事のさい使われた。
 長崎の「5月5日の鯉のぼり」に引継がれている。

長崎・聖寿山 崇福寺アクセス

所在地:長崎県長崎県長崎市鍛冶屋町7-5
アクセス:路面電車:長崎駅前電停~崇福寺(1番系)行きに乗車、終点・崇福寺電停下車(徒歩約3分)
拝観時間:8:00~17:00
拝観料:個人:一般300円/中高校生200円
崇福寺マップ

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